瀧澤の兵によって周囲を囲まれ、屋敷に火を射掛けられた時、加津沙は数日前に出産を終えたばかりだった。 難産で体力を消耗しきっていた彼女は、起き上がることさえままならない状況で、生まれた子供と共に屋敷の奥に取り残された。 普段ならば意のままに従わせることができるはずの炎が、今や彼女と子供に襲いかかろうとしている。 もはやこれまでか…。 覚悟を決めた加津沙が、最後の手段に出ようとした、その時だった。 『加津沙、赤子も無事か?』 壁や柱を舐めるように燃え盛る炎をかい潜って、目の前に現れたのは常葉だった。 『なぜ戻ってきた?』 屋敷の者たちは皆、火が回る前にここから逃げ出している。常葉も一度は外に逃れたが、母子が見当たらないのに気付いて慌てて舞い戻ってきたのだった。 『そなたたちを置いて逃げられるわけがなかろう。早く出なければ、すぐにここも崩れ落ちる』 火勢の強い屋敷の表側はすでに半分以上焼け落ちていた。 彼女がここにたどり着くのも容易なことではなかったのだ。 『私はもう無理だ』 加津沙はそう言うと、懐に抱えていた子供を常葉に差し出した。 『この子を頼む。私がここから二人を逃がしてやる。だからこの子を連れて…』 『何を言うか。まだ助からないと決まったわけではない。自棄になるな』 そう言う常葉も、じりじりと迫り来る火に背中を焼かれながら、次第に焦りを感じ始めていた。先ほどまで自分が通っていた廊下はすでに天井が焼け落ち、表に戻ることは叶わないだろう。屋敷の奥は突き当りが神を祀る岩屋で、切り立った崖になっており、とても赤ん坊を連れては上れるようなものでない。ましてや加津沙がこの状態では、平らな地面を這って逃げることさえ難しいやもしれなかった。 『慰めは無用だ。自分のことくらい、分かっている』 常葉の険しい顔を見ながら、加津沙は苦しげな、しかし静かな笑みを浮かべた。 『それに忘れたか?衰えたとはいえ、私は未だ神に仕える巫女だ。この有様ではもはや村を守ることは叶わぬが、そなたたちを逃がすことくらいは容易い』 その言葉にあることを思い至った常葉は、顔色を変えた。 風守の巫女は一生に一度、神の使いに大願を聞き届けられるという。 だが、いまだ試した者はおらず、もちろん加津沙や常葉も実際にそれを目にしたことはない。ただ言い伝えによれば、それを成し遂げるには相応の対価が必要だった。 『そなた、まさか…』 加津沙は頷くと、最後に一度、腕に抱いた赤ん坊を優しく抱きしめる。そしてまだ躊躇している常葉の腕に、無理やりわが子のくるみを託した。 『どこか、瀧澤の手の及ばぬ場所へ連れて逃げてくれ。そして願わくば、大切に育ててくれる人に…』 加津沙はそう言うと、赤ん坊を抱いたままその場を動こうとしない常葉を、見えない風の力で屋敷の外、岩屋の前まで弾き飛ばした。 低い声で何かを念じ始めた巫女の足元が白く光り、炎が上り始める。それは屋敷に燃え盛る紅蓮の炎とは全く異なる、青く輝く焔。 その輝きに取り込まれるように、見る間に彼女の全身が白く霞んでいく。 地面に尻餅をついたまま呆然と成り行きを見ていた常葉だったが、火がついたように泣き出した子供の声を耳にしてやっと我に返った。そして立ち上がり、加津沙の元に戻ろうと足を踏み出した時、赤ん坊を包んだ布から何かが転がり出たのに気付いた。拾い上げてみると、それは加津沙の瞳と同じ色をした、美しい水晶の珠だった。 『なぜ珠玉がここに?』 訝しみながら珠を戻した常葉の頭に中に、加津沙の声が響いた。 『頼んだぞ』 はっとしてそちらを向くと、青い炎に焼き尽くされた加津沙は、苦痛に顔を歪めながらも、小さく頷いたように見えた。 そして、最後に地を揺らさんばかり叫びを上げると、加津沙は完全に塵となり、常葉の視界から姿を消した。 『待て、加津沙』 思わず駆け寄ろうとした常葉の周囲を、加津沙が散ったあとの霞みが取り囲む。そして抵抗する彼女と、加津沙の子を掬い上げるように包み込むと、その形を徐々に変えながら、空に向かって上昇し始めた。 『加津沙ぁ』 姉妹同然に育った巫女を呼ぶ常葉の悲痛な叫びと、赤ん坊の泣き声を打ち消しながら、天高く舞い上がった竜は、二人を抱え、泳ぐように雲間を抜けていく。そして地面にひれ伏したまま成り行きを見守る村人や、呆然とそれを見送る瀧澤の兵たちの視界からゆっくりと消えていったのだった。 巫女の怒りによって呼び寄せられた、風の神の使い。蒼い焔を纏った竜の伝説はこうして生まれた。 「その後の二人の行方は?」 『分からぬ。私はこの世に出てくるための次の機会を待った。それが叶ったのは数十年後。もう世の中は時代が変わり、噂は人の口にも上らぬようになってからだ。無論、私も人の子の親だ。できればわが子の行く末を知りたいと願ったが叶わなかった。この村に戻れば分かることもあっただろうが…世情がそれを許さなかった』 巫女はそれから幾度も転生した。 だが、今の聖子に至るまで、一度たりともこの場に戻ってくることはできなかったのだという。 『私が願ったのは、子供の無事といつかまたここに戻って来たいということ。ただそれだけだ』 「でも、巫女の呪いが」 『なぜそのような謂れなったのかは、私にもわからぬ。だが私は喬久殿も、常葉も、そして攻めてきた瀧澤の兵たちも、誰も呪ってはおらぬ』 「でも、ならばなぜあなたは、何度も転生したですか?」 『それが我が身と引き換えに私が願ったことだからだ。再びこの地に戻ってくる。その望みは今世で叶った。恐らくは、もう二度と、私が生まれ変わることもないであろう』 「あ、でも…」 突然、二人の会話に割り込むように誰かの声が重なり始める。同時に繋がっていた二つの意識が少しずつ離れ始めた。 『ほら、瀧澤の末がそなたを呼んでいる。もう行くがよい』 「最後にもう一つだけ教えて。これから私は…何を信じればよいのでしょうか?」 瞬時にその言葉の意味を理解した加津沙は、柔らかな笑みを浮かべた。 『そなた、あの男を…瀧澤の末を憎からず思っておるのだな』 聖子はその言葉を即座に否定しようとして思いとどまった。 今自分が向かい合っているのは、己の中の一部分だ。外に向かってはいくらでも誤魔化しがきくが、内側から自分の気持ちを推し量ることのできる者に嘘はつけない。 黙ったまま、肯定も否定もしない聖子に、加津沙が諭すような口調で語りかける。 『言ったであろう。私は喬久殿をお慕いしていた。だから自分の心を信じて殿に身を委ねたのだ。そのことを後悔したことは一度たりともない。 そなたもあの男に惹かれているのなら、自らの思いに背かぬようにするがよい。それが賢いことか、それとも愚の骨頂か、正否は時がたてば自ずから明らかになるであろう』 肩を掴まれて強く揺さぶられた聖子は、何度も頭を大きく前後に揺らされたせいで眩暈を覚えた。 「や、止めて」 やっとの思いでそれだけ言い、掴まれていた手を振り払うと、急に支えを失った彼女の身体は座っていたソファーから滑り落ちそうになる。 「大丈夫か?」 慌てて彼女の身体を引き上げた和久が、不安げに顔をのぞきこんだ。 「一体何をしていたんだ?ずっとぼんやり遠くをみたままで、呼んでも答えないし、真っ青な顔をして。君は瞬きすら、ほとんどしていなかったんだぞ」 言われてみれば目が乾いてざらつく感じがする。 「魂が抜け出た…トランス状態、というのを聞いたことはあったが、見たのは初めてだ。驚いたよ。それに恐ろしかった」 「自分の内面と向き合っていただけよ。なのに、恐ろしい?あなたが?」 きちんとソファーに座りなおしたのに、彼はまだ彼女を放そうとはしなかった。握った手が微かに汗ばんでいるのを感じる。 「ああ。息はしているのに、まるで置物のようだった。とても生きている人間とは思えなかった。このまま呼吸が止まり、意識が戻って来なかったらと考えると…恐ろしかった」 そう言うと、突然和久は強く彼女を抱きすくめた。 「ああ、怖かったさ。君がいなくなると思うとどうしようもなく…恐ろしかった」 抗うことはできた。力を込めて拒絶すれば彼を振り払うこともできただろう。だが、聖子はそうしなかった。 『自らの思いに背くな』 巫女が彼女を諭した言葉が、彼女の心に巣食った逡巡や猜疑を押し留めた。 「もう二度と、こんなことはしないでくれ。頼むから」 触れ合った場所から流れ込んでくる彼の思考は、ただ彼女を心配する気持ちだけ。 その言葉に偽りはなかった。 HOME |